後集102 相手に何かを伝える方法は、いろいろ

後集101-120

起 原文

心無其心 何有於觀
釋氏曰觀心者 重増其障
物本一物 何待於齊
荘生曰齊物者 自剖其同

心に其の心無ければ、何ぞ観に有らん
釈氏「心を観ず」と曰う者は、重ねて其の障を増す
物は本一物なり、何ぞ斉しくするを待たん
荘生「物を斉しくせよ」と曰う者は、自ら其の同を剖くなり

斉しく、ひとしく、斉物、万物を平等にみる

承 意訳

心の中に煩悩が無ければ、心を観ずる必要はありません

それなのに釈尊は「心の中を観ぜよ」と言いますが、これは心を混乱させます

万物は元々一つの物ですから、あえて平等に見るように努める必要はありません

それなのに荘子は「万物を平等にみよ」と言いますが、これは一つのものを別々にとらえるようなものです

転 別視点

素直に文面から解釈すると、釈尊も、荘子も、わかりきったことをあえて述べると、逆に本質を誤解してしまう可能性を誘発してしまう、ということです

ただ、洪自誠さんも理解していますが、「あえて言葉にしないと、本質さえも伝わらない」という現実もあります。だからこそ、釈尊、荘子の言葉を誤解しないように、という忠告の段落なのでしょう。

結 まとめ

相手に本質を伝えるためには、ときには逆説的な表現もありなのかもしれません。

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